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LIFE DRIPPER

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おすすめ本『ゴダール的方法』| ゴダールに学ぶ世界のミキシング術(平倉圭著、インスクリプト)

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おすすめする本

ゴダール的方法

ゴダール的方法

 

著者

1977年生。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。専門は芸術論、知覚論。美術家としても活動をおこなう。現在、横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程講師。
出典:amazonサイト著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

感想

もちろんすべてではないが、ゴダールついての批評や書籍をいくつか読んできた。その中で本書は独自の位置にあるのが面白い。

まず2つのわだかまりから解放してくれる。

  1. ヌーヴェル・ヴァーグの始祖とも言える批評家バザンの写真映像の存在論とゴダールの距離
  2. ゴダールのときに荒唐無稽な強弁の論理

勝手にしやがれ』の頃からワンシーン・ワンショットじゃなく、ブツブツ切ってたし、ゴダールってバザン信仰じゃなかったのかなあ、でも一緒にカイエ・デュ・シネマで書いてたし、とか思ってたんですが、やっぱりゴダールはバザンの考えから距離をもち、昔からデクパージュの面白さに惹かれていたのですね。 ゴダールがよく使うヒトラーと『独裁者』のチャップリンのオーバーラップはバザンが論文で言っていたことでした。チョビ髭の類似によってお互いの存在を剽窃しあうっていう論理です。
もちろん存在は別々ですが、映像の上での存在は容易に重なり、入れ替わりしたりしてしまうのです。「見かけ」はすなわち「存在」なのです。

たぶん、ここが分かれ目なんでしょう。バザンは「だから、誤解されないように、嘘がないように、ワンシーン・ワンショットで撮れ。編集には気をつけろ」って思ったのでしょう。
しかし、ゴダールは「そこが映画の面白さでしょ。そのいかがわしさが映画の本質でしょ」って考えたのだと思います。
つまり映画への認識は同じでも態度が異なったのだろう、と思います。

これは実はすごく身近な問題です。ゴダールを観たことあるなし、映画好きであろうとなかろうとです。
たとえば2014年紅白のサザンオールスターズのパフォーマンス。ただチョビ髭を付けただけなのに、付けた途端、ヒトラーチャップリンのイメージが視聴者に去来してしまうのです。
当たり前ですがチョビ髭自体は道徳的な善悪とは無縁です。無縁なのに、「けしからん」「いいけどTPOをわきまえろ」「よくやった」などと両極端な感情をもたらすのです。

我々はバザンとゴダールの間にいると言ってもいいかもしれません。

次は2について。 ゴダールの映画もそうですが、言ってることもよくわかりません。
そしてその哲学めいた魔術のような言葉を、みんなよってたかって解釈しようとするわけです。それはもはや斟酌(しんしゃく)・忖度(そんたく)のようにすら見えます。 しかし本書を読んでだいぶすっきりしました。

ゴダールの言葉は映画の論理で考えた結果なので、映画の論理についていけなければわからない。
むしろ、だからこそそんなに真意を探ろうとしたり、ゴダールの言葉をありがたく崇めたてる必要もないのかなと思います。

ゴダールの『映画史』にしばしば現れる理解不能な断言は、本来「失語」の場所で遂行されている結合を、無理やり「言語」の場所にもたらしたときに現れる、言語の強弁的使用に由来している。
(263頁)

では、ゴダールの映画の論理ってなんだろう。

本書での平倉の態度は、「イメージ/音−映像/見ること−聴くことに内在して考える」ことです。
なぜそうするか? ゴダール自身がそうしているからです。ではゴダールはなぜそうするか? 映画はそういうものだからです。

複製された出来事は、音と映像のあいだでばらばらに切り離され、根拠なき結合をくりひろげている。この結合の根拠の不在という事態は、映画というメディアの基本的条件をなしている。
(28頁)

平倉が試みているのはゴダールの方法をゴダール再帰的に折り返して分析することです。

「イメージ/音−映像/見ること−聴くことに内在して見る」とは、逆の外在的な説明を排除することです。最新作のタイトルは『さらば、言葉よ』です(邦題は『さらば、愛の言葉よ』)。

「イメージ/音−映像/見ること−聴くことに内在して考える」とどういう事態が発生するか?
このイメージにはこの音が正解、このイメージの次にはこのイメージが正解……ということが言えなくなるのです。慣習やらイデオロギーやらも排除するわけですから。
これはドゥルーズが『シネマ』で言った「純粋な光学的かつ音声的な状況」ということでしょう。

音−映像の結合根拠が、原事象による統一にも、慣習にも、イデオロギー的な正義にも求められないとき、編集の問題は結合の内在的な根拠をめぐるものとなる。しかし結合の内在的な「正しさ」とはいったい何を意味するか。それはどのように発見されるか。ここで結合が新しい経験の構成にかかわるものであるかぎり、「正しさ」をあらかじめ実体的な原理として措定することはできないはずだ。にもかかわらず結合の「正しさ」を思考しうるとしたらそれはいったいどのようにしてなのか。
(36頁)

ここから分析が始まっていきます。逆にここまでの理屈になじめないと、つらいかもしれません。それこそ強弁や屁理屈に見えてしまうかもしれません。

さて、この先出てくる主なタームは以下。

  • 類似
  • ダイアグラム
  • ミキシング
  • 短絡(short circuit
  • 見間違い−聴き間違い
  • 実例提示・実例教育

それぞれ詳細には説明しません。ぜひ本書のスリリングな分析を体験してほしいと思いますが、簡単に……

上述したように、結合の内在的な根拠不在のために、「見かけ」が似ている(「類似」「ダイアグラム」)だけでつなぐ・重ねている(「短絡」「ミキシング」「はしたない結合」)ということです。あるイメージのフォルムと別のイメージのフォルムの重ね合わせによる第三のモアレ状のフォルム。
ぼくが知るかぎり、「類似」という観点で書かれたゴダール論を読んだことがなかったので新鮮でした。 (平倉によればドゥルーズが『シネマ』で、ゴダールを「間隙」「差異」で論じたことで、それ以後そういった論調がばかりになってしまったと言っています)
特に「短絡」は面白い。この「短絡」によってゴダールの特有の「強弁」が生まれているという。それゆえ、上で引用したように映画から外在的にしたテキストは荒唐無稽に聞こえる。

外在的な根拠がないかぎり、根本的に映画は「見間違え−聴き間違い」の可能性に満ちていて、ゴダールはむしろそれを負の可能性ではなく、新たな経験を創造する可能性=力として解放しようとしているということです。

しかし、まさにそうであるがゆえに、ゴダールの論理は一般化されえない。
平倉は哲学者ヒュームを持ちだしてこう言います。

生き生きとした結合の「感じ」を指し示す語を選ぶにあたって、ヒュームはある種の躊躇を示す。ここには哲学的論証の言語の限界が、あるいは端的に一種の「失語」があるのだといってもいい。論理的必然性をもたない結合を捉えようとするヒュームの議論は、それがまさに論理に外在的な出来事であるがゆえに、言語が滑落する地点へと直面する。──そして現代映画に要請される結合に「信」の名を与えたドゥルーズもまた、結合の内在的根拠不在を前にして同じ失語の地点に直面していたのだと言えまいか。
(48頁)

一般化されえないから、ゴダールは「実例提示」しているのである。

結合の「正しさ」を音と映像から「実例」の感覚的強度によって例示すること。(中略)「正しさ」が思考可能になるのは、この特異な「実例教育」によってではないだろうか?
(53頁)

ゴダールの映画がわけわからないの当然だろう。日常的な経験とは別の論理で構成された経験を創りだそうとしているのだから。それが可能なのは映画が本源的に不確定で、それを見る我々は見間違い聴き間違うことができるからだろう。
だとするなら、ゴダールの「真意」を斟酌・忖度する必要もないのではないだろうか。
本書を読むと、ゴダールがわれわれに「実例教育」しているのは、積極的に見間違い・聴き違い、あなただけの未見未聞の経験・思考を創り出せ、ということではないかと思えてくる。

もちろんそんなことわかりません。何度目かになりますが、ゴダールの「真意」を同定することはできないからです。映画は不確定にゆらぐからです。

それでも、本書を読み、ゴダール見て思うことは、世界はもっと自由だし、もっと美しい。そして同時に世界はデフォルトではしたなく、いかがわしいということ。

本書は世界の「映画化」について本だとも言えます。

音と映像の離散的操作に基づくこの編集は、映画というメディアの物質的条件から論理的に帰結している、世界に対して感覚の生理学的区分を適用することが無条件で肯定されるなら、世界に視−聴覚の断絶を調停しうるいかなる基底的な実体の想定しえない、ゴダールの映画が与えるのはそのような局面におかれた世界の経験である。それはすなわち世界が「映画化」するという事態にほかならない。 (29頁)

まさに、「世界の映画化」なんて受け入れられない、世界はデフォルトではしたなく、いかがわしいなんて許せない、って人には本書はつらいかもしれません。

付記1 ちなみに世界の映画化とは、ハリウッド化ではありません。
付記2 申し訳ないですが、先述のサザンオールスターズの例をもう一度挙げましょう。例のパフォーマンスに賛否ありました。ここで着目すべきは、まさに「賛」派も「否」派もゴダールがやるのと同じように、ヒゲをつけた桑田佳祐の顔に「ヒトラーチャップリン」のイメージをオーバーラップ・ミキシングしたということです。

ぼくが上で「ここまでの理屈になじめないと、つらいかもしれません」と書いたのは、理解できるかどうかの問題ではないです。本書はむしろ読む易い部類だと思います。
なじめるかどうか、という感覚的なもの、というか生理的なものです。

ぼくは積極的に見間違い・聴き違い、あなただけの未見未聞の経験・思考を創り出そうって楽しい気分になりましたが……皆さんはどうでしょう。

最後に。
「世界の映画化」、この事態を肯定した先駆者がヒュームだと言っています。世界の映画化とは世界のヒューム化でもあります。

ヒュームの認識論の特徴は感覚データからの超出を排除することにある。そのもっとも重大な帰結は諸観念の「関係」特に「因果関係」を知覚不可能としたことであり、人格の同一性はそこでばらばらな「諸感覚」にまで還元される。ヒュームによれば諸観念の連合を実在的に保証するものは存在せず、与えられるのはばらばらな知覚印象の必然性なき恒常的随伴の経験のみである。それゆえ私と世界とのつながりが失われて世界が「映画化」するとは、世界が「ヒューム化」することでもあるのだ。
(45頁)

おお! ということはですよ。「生きていること」、すなわち「ミキシング」じゃないですか!

そう思った人は是非千葉雅也の『動きすぎてはいけない』も読んでみてください。
「世界のヒューム化」にスポットを当てた本です。ヒューム主義者としてのドゥルーズを扱っています。上の箇所を引用して、本書にも触れています。
本書では『シネマ』のドゥルーズは批判的に扱われていますが、「世界の映画化・ヒューム化」という点において両書は通底しています。
本書の後半には、結合の程度・度合いについて論じていますが、その点こそ『動きすぎてはいけない』で論じていることでもあります。
本書にならって言えば、両書を重ね合わせて読むと面白いかもしれません。
ぼくは先に『動きすぎてはいけない』を読んでいたのですが、再読したくなりました。

それとゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』はまだ観てないので、楽しみです。3Dって!

関連書籍

動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学
 
ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)

ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)

 
ヒューム (ちくま学芸文庫)

ヒューム (ちくま学芸文庫)

 

追記

アンドレ・バザンの『映画とは何か』が岩波文庫で出るのですね。前のは確か絶版になっていたと思うので、朗報です。
ちなみにバザンとは、後にヌーヴェルヴァーグの旗手となる若きゴダールトリュフォーロメール、シャブロル、リヴェットなどが所属していた映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』を創刊し、初代編集長となった人です。「ヌーヴェルヴァーグの精神的父親」などと呼ばれもするみたいです。とはいえ年齢差はゴダールとは12歳、最年長のロメールとは2歳なので、父親というより兄貴分的な存在だったかもしれません。そんな彼の主著が『映画とは何か』です。ながらく絶版になっていたのでよかったですね。

映画とは何か(上) (岩波文庫)

映画とは何か(上) (岩波文庫)

 
映画とは何か(下) (岩波文庫)

映画とは何か(下) (岩波文庫)