『かぐや姫の物語』(ジブリ、監督高畑勲)のストーリーどうなの?(ネタバレあります)
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『かぐや姫の物語』を観た
ついに『かぐや姫の物語』がテレビで放映されたので、録画しておいたのを観た。
世間でも微妙な反応があるようだが、ぼくも同じく微妙。
水彩画のような画、自然の描写、鳥や虫など背景音などはほんと素晴らしかった。とくに淡い色合いは素敵。ぼくは好きだ。 人物の動作や表情のアニメーションの演出も好きだ。宮﨑駿とまた違った良さがある。着物が舞うシーンがたくさんあるが、とても素晴らしかった。
そう評価しつつ、やはり微妙なのはストーリー。観終わったあと、居心地の悪くなったのはぼくだけではないのではないだろうか?
かぐや姫が地球にきた理由?
後半にかぐや姫が地球にきた理由が明かされるのですが、ここでしらけてしまった。
地球にきた理由が、月の人かぐや姫が地球の暮らしに憧れてしまった罰として地球に送り込まれた、ってことになっていますが、おかしくないですか? 地球に憧れた罰で地球に送り込まれた、って罰になってないじゃん!
しかも地球の暮らしにあこがれた理由が、里山での暮らしを満喫したいってこと。都会の人間が里山に憧れるっていうのはよくわかるけど、それは地球内の物語。月の人が憧れるっていうのがまるで腑に落ちない。 それこそ高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』の主人公が田舎暮らしを選ぶのは理解できます。『平成狸合戦ぽんぽこ』で狸が里山を守るために戦うのも理解できます。でも月の人が憧れる気持ちはまるでわからない。
これに対して、月の人には月の人なりの理屈があって、地球人たるぼくにはわからなくて当然、わからなくて結構っていう考えもあります。
モンスター系の話ではたまにありますね。完全なる他者、感情移入を拒む異物としてしまう方法。
それならそれでいいんです。でも『かぐや姫の物語』のかぐや姫は明らかに「近代的自我」の持ち主なんです。そのように描かれているんです。近代的自我とは「本当の私は何? 本当の私を知って!」というものです。だから、かぐや姫が都暮らしで苦しんでいるとき、観ているぼくたちはその苦しみを理解し共有しようとするのです。そこで月の人には月の人なりのぼくらにはわからない理屈があるから想像しなくてよい、となるとわけわかんなくなる。混乱だ。
(ちなみに月から迎えにきた菩薩みたいなのは、地球人とは違う他者という位置づけに見えた)
無理解な父親?
「都に行かずもともとの里山で暮らしていたら私は幸せに暮らしていけたのに」ってかぐや姫は言うんですけどね、じゃあ都に連れ出し、都にそまった父親が一番いけなかったって話?
かぐや姫を中心にこの話を追っていくと、結局「自由な娘と無理解な父親」ってことになるかなと思います。
そう思うと意外と納得いくと思います。父親の無理解が娘を苦しめ、そして最終的には娘は月(死)に追いやられたみたいな。
でも困るのは、父親はめっぽういい人に描かれているんですよ。娘の気持ちに無理解だが、まったくの無自覚なんです。苦しめていることにまったく気づいてない。ちなみに母親は気づいているのに何もしない。その点で共犯だと思います。
こういうふうに整理すると、テレビドラマにもありそうな話です。父親や母親は金銭や都ぐらしや階級に(無意識のうちで)目が眩んで、我を失っていく。娘のためというのは口実で実は自分のため……。これにDVがあれば昼ドラです。もちろん『かぐや姫の物語』にはDVはないです。
こんな見方もあるかなと。個人的には実につまらないですが。
異星人襲来
もうひとつの見方。
異星人がやってきて、地球人を引っ掻き回して、帰っていった話。
私はこの解釈をすることで、鑑賞後の後味の悪さを解消しました。
かぐや姫は異星人であるから、彼女の内面を理解しようとしない。地球の里山ぐらしをしたいなんて言っていますが、そんなの信用しない。なんで地球にやってきたなんか知ったこっちゃない。
なぜに『竹取物語』?
結局、そもそもなぜ『竹取物語』を選んだんだろうって思います。そのこは詮索のしようがないですが。
『竹取物語』をエンターテイメントにするなら、方法としては3つかなと思います。
- おとぎ話的な要素を足して膨らませる
- SFに近づける
- 現代的な解釈をする
『かぐや姫の物語』は3。古典に近代的自我を足す。
こういうのは芥川龍之介や太宰治が得意でよくやってましたね。もしかして高畑勲の意図もそこだったのかな。だとしたら、里山礼賛では無理があるよなあって思います。
1のようにおとぎ話はおとぎ話のままにしておくのがいいと、個人的には思います。おとぎ話の残酷さ・暴力性・他者性・近代的思考から遠さなどの特徴が消えてしまうからです。 (これらが色濃くあるのは子供用絵本でしょう)
エンターテイメントにしたいなら、断然3です。 たとえば、かぐや姫は未来の地球人という設定。地球の環境が悪化し、未来の地球人は月に移住。そして、ターミネーターみたいに、まだ地球の環境が悪くなかった頃にタイムトラベルして地球人に警告しにきた。このままだと地球に住めなくなるぞって。(これを『第9地区』のニール・ブロムカンプに監督してもらいたいな。)
高畑勲にももしかしたらこういう意図が少しあったのかなって思ったりもします。かぐや姫が里山礼賛するのは、地球人への警告だったのでないかと。まあ勘ぐり過ぎですけどね。メッセージを伝えぬまま戻っちゃうなんてまぬけですから。
なんだかんだ言っても
なんだか否定的なことばかり書いてしまいましたが、ストーリーへのわだかまりをデトックスするためです。 それ以外はとても好きです。画も音も。
アニメーションの手法に関してよくわからないのですが、ほんと素晴らしです。
同作はスケッチのような描線や絵巻物のような淡い色彩が特徴的だ。さらに、背景とセル画を別々の様式で描くセルアニメーションの手法とは違い、背景とキャラクターが一体化して1枚の絵のように動くアニメーションを実現するため、わざわざ新しいスタジオを開設してまで制作するなど、こだわりが詰まっている。