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「くらしのしずく」-日々のくらしから抽出された発見やアイディア-をお届けします

「〇〇すぎる」表現への違和感について考えてみた

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sugiru_Fotor

美しすぎる〜、〜可愛すぎる。
これら「〇〇すぎる〜」や「〜は〇〇すぎる」という表現について考えてみたい。
なぜなら、違和感を感じるからだ。
「食べ過ぎた」「言い過ぎだ」「過言」などの前からある使用方法とはまた違ったニュアンスが感じられるからだ。

これらを仮に「スギル表現」と名付ける。
初見は「美しすぎる市議」。

ウィキペディアによるとスギル表現が広まるきっかけだったらしい。
随分と人口に膾炙したものだ。若い人達が多用している。
スギル表現、流行の背景は何だろうか? と気になって考えてみた。

仮説)日本語にはbetter-bestという比較級がないから

better-bestは、端的に価値の度合いを表現できて便利だ。
それに相当する表現としての「スギル表現」の流行があるのではないか?
例えば「美人すぎる市議」を「多くの女性市議の中で一番美人な市議」などと言うのは面倒だ。
Twitterのような文字数制限、LINEのような即時的なメディアではスギル表現はとても便利だ。
便利過ぎる!と言っても過言ではないw

価値の多様さが失われている

別の角度から言えば、価値評価表現の簡略化とも言える。
「美しさ」にもいろいろあるが、それを「美しすぎる」の一言で済ませられる。
しかし、どのように美しいのか? という表現することの努力がない。
価値の多様さが失われた、とも言える。
一つの尺度=定規で価値を測っている。
価値には、基準となるような一つの尺度=定規など存在しないのに、あたかも明確な基準=標準があるかのように振る舞い、その仮想の基準=標準を超えている場合に「〇〇すぎる」と言っているのだろう。

その延長に「フツウ表現」もある。
「おいしい」ではなく「ふつうにおいしい」。「可愛い」ではなく「ふつうに可愛い」。
フツウ=標準ということが言いたいのだろう。
しかし、味や可愛らしさにだれもが了解できる標準などないのに。
(まるで国民全員、同じ釜の飯を食べてきたみたいだ)

とりあえずの結論

価値の多様さが失われているのか?
あるいは同じことだが、価値の多様さを発見し表現する努力が失われているのか?

とりあえずの結論。
「日本語が乱れすぎてヤバイ」
果たしてこの結論、肯定か否定か、楽観か悲観か?(笑)