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アニメ映画『百日紅』評|江戸の「気配」を表現するアニメーション

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葛飾北斎(声/松重豊)の娘お栄(声/杏)を主人公としたアニメ映画『百日紅』を観ました。なかなか面白かったので、感想を書いておきます。

原作は杉浦日向子の同名マンガです。こちらは読んだことありませんが、映画を観て原作も読んでみたくなりました。原作も読んだら感想を投稿したいと思います。

さて、当然ながら、映画の楽しみ方はいろいろです。

鑑賞前の認識では、本作は「男社会でのお栄の活躍、男勝りな生き方」か「家族愛」を謳ったものだと思っていた。なぜって、宣伝がそういう感じだったから。

制作者はおそらくその点も意識していて、「男社会でのお栄の活躍、男勝りな生き方を楽しむ見方」の促すかのように音楽がロックテイストなのだ。 江戸なのにロックテイスト? と違和感を感じた方もおられるかもしれないが、勝手な推測だが、音楽は「男勝りな」という部分の演出のためだろうと思われる。 確か広告もそんな意図を感じさせるものだった。 原作者の杉浦日向子、声優の杏、主題歌の椎名林檎の写真を並べた広告があったと思う。

それを否定はしないが、僕が感動したのは、そこではなかった。 僕が感動したのは、「気配」に満ちていたことだ。その点、「物語」好きには物足りなかったかもしれない。正直どんな物語だったかと言われても、あまり記憶にない。

あるのは「気配」。そして、気配をつかみ、イメジネーションでふくらまし、技術で紙に落としこむ絵師たちの姿です。

ここでの芸術は、個人の内からわきあがる感情の発露ではなく、外界のかすかな気配を感じ、イマジネーションで膨らまし、技術で紙に落としこむこと。つまり20世紀的な芸術観やアーティストではない。

冒頭、百日紅の花がボトッと落ちる。ボトッと、という気配がある。その後のセリフで百日紅を「わさわさと散り、もりもりと咲く」と形容しているが、それが百日紅の「気配」だ。

「気配」という点において秀逸なのが、盲目の妹お猶とのシーンだ。お栄は目の不自由なお猶のために江戸を案内していくのだが、ここがいい。

橋の欄干に寄りかかる二人。往来が激しい。目の見えないお猶のために「今のは魚屋が通った音だ」など説明していく。そこに江戸の音があり、江戸の気配がある。

冬の雪道のシーンでは、雪のシンシンと降る音があり、雪の気配がある。

この二人のシーンでは、一瞬、思わず僕も目をつむってしまった。お猶が感じているものを感じたいと思わせるくらい素晴らしいシーンだった。

原作はまだ読んでいないだが、調べたところ、原作ではお猶はちょっとしか出てこないらしい。それを今回こんなにメインで扱ったのには、原恵一監督の意図があるかもしれない。「家族愛」という物語のため以外にも。

まだ科学が発展していない時代だったから、というわけではなく(実際の江戸はどうであれ)少なくともこの映画の中の江戸の人は「気配」に敏感だ。

この映画の中の江戸人たちは、得体のしれない気配を、龍や妖怪へと昇華する。花が落ちることに詩情を感じる。遊女の優越は、単なる見た目だけではない、気配=色気の有無だ。

卓越した絵師であるお栄が、しかし、春画が苦手なのは、「色気がない」と言われてしまうのは、色気=気配が感じ取れないからだ。北斎の弟子池田善次郎(声/濱田岳)が下手くそと言われながらも、春画では人気があるのは、そこに色気=気配があるからだ。

技術が未熟でも、「気配」を感じ取るアンテナとイマジネーションがあればいい絵となるのだろう。

登場人物と同じように、観ている者に「気配」を感じさせてくれるアニメだ。

だからこそ、思う。あのロックテイストな音楽には違和感を感じると。内なる感情を説明しようとする音楽は、この映画には似つかわしくないと思った。

まあ、見方はそれぞれだ。個人的にはおすすめだ。原作を読んでみたいと思う。

 

百日紅 (上) (ちくま文庫)

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百日紅 (下) (ちくま文庫)

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