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東京オリンピック エンブレム類似問題で思ったことをつらつらと[追記あり]

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ニュースサイトやTwitterで推移を見ながら、いろいろ考えさせられたので、メモ代わりに書き留めておこうと思います。ちなみに私はデザイナーではなく、デザインの教育も受けたことはないです。

劇場のロゴがさほどオリジナリティがあるとは思えない

これを執筆時点(2015年8月5日)では、ベルギーの劇場のロゴのデザイナーのドビ氏は、使用差し止めの申し立てをする、それに佐野研二郎氏が反論する、というのが最新のニュースです。

正直、ドビ氏は随分強気だなと思いました。というのも、ベルギーの劇場のロゴがさほどオリジナリティがあるとは思えないからです。いい意味で、実にシンプルなもので、独創的とは言えないからです。つまり偶然の類似は起こりやすいと(後述します)。

しかし、法的には、独創的かどうかは関係ないのかもしれません。正直、著作権等には明るくないので、その点にはふれません。

個人的には、これは盗作じゃないだろうし、いいじゃないのって気持ちです。佐野研二郎氏のエンブレムはパラリンピックのロゴとの二個セットで成り立つものでもあるし。二個セットで考えれば、ベルギーの劇場のロゴとは全然似てない。

ロゴもリスクマネジメントか?

とりあえず、この二つが似ている似ていないはいいとして、今回の騒動を見ていて、わかったことがあります。オリンピックに限らず、ワールドカップなどの国際的なイベントの、最近のロゴがダサいのは、世界中からのクレームを怖れ気を遣ううちに、どんどん変になってしまっていたのではないかということです。今回のような盗作疑惑騒動のリスクマネジメントを重視すれば、奇抜にならざるを得ない。幾何学的・簡潔・明快さを重視するモダンデザインは、図らずも他と似てしまうリスクが大きいから。ロンドンオリンピックのロゴはひどいって思ってましたが、今は「仕方がなかったんだねえ」と同情しています。

これを踏まえると、今回の騒動について思うのは、

  • 選定する側のリスクマネジメントが甘かった(佐野研二郎氏のモダンデザインを選べば、何かに類似してしまう可能性が高い。他の大会にならってもっと奇抜なのにすればよかった)
  • 逆に言えば、佐野研二郎氏がまっとうなモダンデザインを提案したことは勇気があった

デザインと言えば、モダンデザインのことだと自然と認識してしまっている私としては、リスクマネジメントの結果のなんだかわからない奇抜なものになるより、佐野研二郎氏のデザインになってよかったと思います。先に、選定する側が脇が甘かったと書きましたが、勇気があったとも思います。

1964年の継承と使命

では、なぜそんなリスクを冒す必要があったのか?
まったくの推測です。

1964年の東京オリンピックは、亀倉雄策氏の有名なロゴに代表されるように、世界に日本のデザイン力を大々的に示した大会だった。ここで言うデザインとは、西洋由来のモダンデザインことですが、デザイナーの頭の中にはーーモダンデザインと共通するようなーー琳派的な簡潔な日本のデザイン性もあったと思います(一応付記しときますが、琳派的なものとは正反対のものも日本にはあるので、簡潔なデザインが唯一の日本的なデザインというわけではありません)。

世界的な評価はどうだったかわかりませんが、今では世界的に当たり前のように用いられる各競技を示すピクトグラムや、世界中どこに行ってもほぼ共通するトイレの男女のピクトグラムを見れば、成功だったと言えるのではないでしょうか? 

有名な話ですが、東京オリンピックでは様々な言語の人にも一目でわかるように、ナビゲーションのデザインが工夫され、大々的に用いられました。さらにそれらを作ったデザイナーたちが著作権を放棄したことで世界に広まったのです。

参考:ピクトグラム - Wikipedia

ピクトグラムや、今やwebサイトで必須のアイコンは、簡潔かつ明快でなければなりません(世界中で通用する象形文字みたいなものです)。これらは、モダンデザインの成果の一つであり、世界に広めたきっかけが1964年の東京オリンピックでした。これは胸をはっていいことだと思います。

こういった歴史が、亀倉雄策氏のロゴを引き継ごうとした佐野研二郎氏や、これを選んだ人たちの中にあったのではないかと思います。デザインにおける1964年東京オリンピックが果たしたものへのオマージュと、それを引き継ごうとする使命感のようなものがあったのではないかと……。

まったくの推測ですが。

あえてリスクを冒して作成・選定されたわけではないでしょうが、選定の裏には使命感のようなものがあったのではないかと、勝手に想像しています。

▼1964年との関係については、下の記事を参考▼

普遍的なデザインとは何か? デザイン的な正しさとは何か?

モダンデザインのはじまりが、バウハウスなのかロシア構成主義なのかわかりませんが、その志向・思考とはざっくり言えば「普遍的なデザインとは何か? デザイン的な正しさとは何か?」ということだと思います。作者の個性ではなく、普遍性を求める。その結果、幾何学的な構成になりました。

幾何学的で、普遍的(ユニバーサル)であろうとする以上、当然似てくるのです。現在の文脈では、「似る」ということはダメなことのように感じますが、普遍性(ユニバーサル)を求めた結果似てしまうのは決して悪いことではないはずなのです。独創的な普遍性なんてありえないので。

ここまで、デザイン≒(ニアリーイコール)モダンデザインという前提で話をすすめていますが、そうではないのも事実です。モダンデザインという一つの流派にすぎないとも言えます。

ちなみに先に、最近のオリンピックのロゴがダサいと書きましたが、そう感じるのは、私の感性が無意識のうちにモダンデザインの文脈の中にあるからでしょう。私はデザイナーではなく、デザインの教育も受けたことはないですが。

さて、劇場のロゴを見るにドビ氏もモダンデザインという流派に属する人だと思います。

だとしたら、こんだけロゴがあふれている世の中で当然似たものが出てくる可能性はあるはずで、なぜセンセーショナルになるのを承知で「盗作だ」と表にでてきたのかが、正直気持ちがわからないです。

偶然の一致がありえないような独創的なデザインではないです。別に独創的でないことを批判しているわけではない。独創的ではないが、普遍的だということです。普遍的であればあるほど、偶然の一致は起こりうると思うのです(世界中に、交流がなかったはずなのに似た遺跡があるように)。

じゃあモダンデザインは盗作オッケーって言いたいわけじゃないです。昨今のオリンピックのロゴでわかるように、モダンデザインは(あるいはモダンデザイン的な志向・思考は)現代では窮屈な立場に追いやられていると思うのです。

私には、ドビ氏も佐野研二郎氏も、モダンデザインの力を信じているからこそ、あのようなシンプルな提案をしたと思うのです。二人共同じ流派だと思うのです。モダンデザインが法的なリスクで窮屈になっている中で、ともにモダンデザインの力を信じる仲間だと思うのです。その本人が「使用差し止めの申し立て」を訴えたのが、正直わかりません。

考え過ぎかもしれませんが、ドビ氏は自分で自分のデザインを否定しているようにすら思えます。自らモダンデザインの息の根を止めようとしていると。

じゃあモダンデザインは訴える権利はないということになりかねないから難しい。

ハフィントン・ポストの記事で以下のように言及されています。

  • 「単純形状ときれいな線で、過去のオリンピックのロゴマークから決別している」
  • 「ロゴマークがよく似ていることは珍しくはありません。それはむしろ、『賢人は皆同じように考える』場合に生じます」

引用:東京オリンピックのエンブレム「盗作じゃないと思う」 ハフポストのアートデザイナーが指摘

ちょっと建築の話をします

今回の問題と似ているかなあと思って。

モダニズム建築の話です。モダニズム建築といえばル・コルビュジエですね。

モダニズム建築も発想は似ています。「普遍的(ユニバーサル)な建築とは何か? 建築的な正しさとは何か?」 というか20世紀前半全体がこういうことを考えていた時代なのです。

ル・コルビュジエは「近代建築五原則」なんてものも提唱します。

しかし、後世の建築たち悩みます。確かにコルビュジエはすごいし、言っていることは正しい気もするが、似たようなものしかできないじゃん、と。

そして建築はポストモダンになります。あえて復数のデザイン的なコンテキストを混ぜたのです。意図的にコンテキストを混ぜて、モダニズム建築は普遍的なのではなく、モダニズム建築という一つのコンテキストに過ぎないのではないかという問い直しをしたのです。

なぜか? 創造性の自由、創造の可能性への自由を取り戻そうという意図からだと思います。(法的な意味の表現の自由の問題とは関係ない)

グラフィックデザインの話に戻れば、同じようにモダンデザインも一つのコンテキストに過ぎなくなってきているのかなあと思いました。それともずっと前からからかもしれませんね。

▼この記事では「保守的」と酷評されています▼

2020年東京五輪のエンブレムは「よくわからない」:US版『WIRED』記者が酷評 « WIRED.jp

あの動画は不快

最後に、あの動画について。 あの動画とは、ドビ氏が作成しFacebookにあげたという、「劇場のロゴから東京オリンピックのエンブレムへ推移する動画」のことです。

【動画】リエージュ劇場エンブレムデザイナー「できることなら変更を」

これを最初に見たとき、似ていると思うより前に、イヤな感じを受けました。動画内での円の扱い方です。劇場のロゴの円が右上に移動しながら、縮小していき、黒から赤へ変わる。こんな風に動画で、外周の黒い円を内部の赤い円へとあたかも「連続的」なようにつなぎ、推移させてしまえば、「似てる」と思うのは当然です。

LOGO MOTION

これを見るとわかると思います。多少近いかなくらいのデザインが動画の効果で「似ている」ように見えます。

ドビ氏はデザイナーだから、よくも悪くもビジュアルが人間の心理を誘導してしまうのは知っているはず。というかだからデザイナーになったと思うのです。

ビジュアルの専門家だからこそ、あのような動画には慎重であってほしかったなと思います。

というのも、外の円と右肩の円とでは、発想的な距離が相当あると思うのです。しかし動画では、それを短絡化して見せてしまう。ビジュアルが如何に人の心を誘導してしまうかよく知っている、というかその専門家なのだからこそ、極めて誘導的なあのような動画には慎重であるべきだったのではないかと思うのです。

劇場のロゴの外の円は外部との境界的な機能、フレーム的な機能が主でしょう。東京オリンピックのエンブレムの円は意味(日の丸やパラリンピックのP )を持っています。これは認識の上ではかなり大きな違いだと思うのです。人は基本的に境界線に区別以外の意味を感じない。絵画を見ても額縁を記憶してる人はあまりいないでしょう。極論、劇場のほうは円がなくても成り立つのです。

▼知的財産法を専門とする神戸大学大学院法学研究科・教授の島並良氏が、劇場の外周の円と、東京オリンピックの内部の円について言及している記事▼

2020年東京オリンピック・エンブレムは著作権侵害? 専門家の見方

どちらが価値が高いとかではなく、フレーム的役割と内部のパーツであることとはかなり隔たりがあるはずです。

例えばモンドリアンが絵画の内部に、裏方であるフレーム(フレームがなければ絵画は成り立たない)という境界線を持ってきてフレームインフレームにしたことは、絵画史的な事件だし、さらに、その次の『ブロードウェイ・ブギウギ』で境界線を主役にしてしまったことも絵画史的な大きなジャンプだと思うのです。

囲みの円と内部のパーツとしての意味ある円とにある質的な距離が、あのようにアニメーションで推移させてしまえば見えなくなってしまうのです。それが私には不快でした。

追記

 2015年8月7日付けの朝日新聞にエンブレム騒動に関する短い記事がでていた。

(遠景近景)エンブレム騒動に見る「近代」:朝日新聞デジタル

 ここで執筆者の大西氏はこの騒動を「モダニズム、つまり近代の二つの価値のせめぎあいと見立て」ています。

  1. 「シンプルで幾何学的というのは、まさにモダニズムの美意識だ」
  2. 「一方で近代は、オリジナリティーを追求する。ほかとは違うことが貴ばれ、その表現は著作権などの形で保護される」

なるほど。著作権というものも近代の産物か。言われてみればそのとおりですね。

1を求めるがゆえに似てしまい、2ゆえに似てはいけない。せめぎあっています。記事はこう締めくくられています。

シンプルさとオリジナリティーという二つの価値のせめぎ合いをほぐすことはできるのか。「多少は似ていてもいいじゃないか」と考えるのも一つの手。あとは幾何学的なシンプルさよりも、絵画性や物語性を生かしたデザインを選ぶという道か。そんなことしたら、デザインの後退になる? 進歩を求めるのもまた、近代の価値なのだけれど。

引用:(遠景近景)エンブレム騒動に見る「近代」:朝日新聞デジタル

確かにそうです。

この記者はこの騒動を距離を置いてみているようで、多少揶揄している感もあります。ドビ氏と佐野氏、どっちもどっちだよ、というような。「進歩」を求めてみなよ、というような。私にもそういう思いはあります。

しかし、モダンデザインが「保守的」と言われてしまう現状で、一方webではモダンデザインの志向・思考はずっと重要度を増しているように見えるのです。そういう意味で、モダンデザインにとってメモリアルだった1964年の東京オリンピックが果たした意義を継承しようとすることは、アクチュアルな(今日的な)試みだとも思います。

思えば、1,2のせめぎあいが、近代美術を発展させてきたのですから、この騒動はグラフィックデザインが次へ進む予兆かもしれません。

この記者は同日にモダニズム建築を越えようとする伊東豊雄氏の活動を紹介しています。新聞紙面ではこの二つの記事が隣り合っているので、印象的です。「建築は積極的に「脱近代」しようとしているよ、グラフィックデザインはどうする?」って言わんばかりです。

建築は「みんな」のために 伊東豊雄さん、「脱近代」の新境地:朝日新聞デジタル