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敷かれたレールの上を歩くことと自分でレールを敷くことは大きく違う

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敷かれたレールの上を歩くことと自分でレールを敷くことは大きく違う。

どちらが簡単、どちらが難しい、とはあえて問わずにおこう。なぜなら、この二つは天と地ほど「質」が違う行為だから。

アラフォーのぼくは「敷かれたレールを踏み外さない」ようにする教育を受けてきた。
当然だ。日本の社会がそういう時代だったから。安定的に成長する時代だったから。そんな時代にどっぷりつかってきた両親だったから。

ところが、そんな時代も転換点にきている。
そして求められ始めたのは、「敷かれたレールを踏み外さない」ことではなく、「自分でレールを敷く」ことになった。

社会や政府までも起業推進。会社にいても求められることは「自分でレール敷く」ことだろう。
例えば本屋に行けばわかる。ビジネス、自己啓発コーナーを覗けば求められていることが一目瞭然だ。

内心思う。「自分でレールを敷く」のはまた別の能力なのだ、「敷かれたレールを踏み外さない」教育を強いてきたくせにそりゃないぜって。

就職氷河期でも、頭ごなしに「早くレールに乗れ、乗れないとこの先どうすんだ?  老後どうするんだ?」と迫られた。

愚痴ってもしょうがない。それが現実だから。

なんとか自分でレールを敷かなくては。発想の転換、気持ちの持ち方の変換を自分に強いている。自分で自分を教育している感じだ。持って生まれた気質もあるだろうが、セルフコントロールの技術と訓練で変われる部分も、ある程度あるというのが、今のところの実感だ。

ざっくり言うと、発想から実行までの敷居を低くする訓練。それと「リスク」の捉え方を再考すること。
例えば、起業するのもリスクだが、会社に居続けるのもリスクかもしれない。

ビジネスでよく「リスク」と言うが、そんなに明確なもの、数値化できるものではないというのがぼくの考え。もっと感覚的なものだと思う。
例えば、東日本大震災が起こった途端、地震原発のリスクを強烈に肌で感じるようになった。この肌感は「大地震の発生確率〇〇%」という数字では表せないものだ。そして時間が経てばその感覚は薄れていく。

要はリスクは不安という感覚に近い。
つまり、リスクは無視するわけにはいかないが、意識し過ぎると不安で動けなくなる。あらゆるリスクを回避する方法は何もしないことだが、何もしないこともリスクなのだ。とりわけ現代では。
八方塞がり。リスク=不安の拘束力の恐ろしさ。リスクというものは「取扱注意」なのだ。

あーやんなっちゃうなあー、ついてないなあー、と生来の怠け者のぼくはつぶやく。
ただ歴史を見てみると、国全体があんなにも成長していた時代って、昭和だけなんじゃないかとも思う。

それはさておき、いろいろチャレンジしていこう。
ちなみに「失敗を恐れずにチャレンジしょう」ではぼくの重い腰は動かなかった。だからこう考えるようにした。

「たくさん失敗しょう」

今のぼくはまだまだ失敗が足りない。

追記

時々副業禁止って聞くけど、給与はあがんない、退職金もろくに払えないのに、副業禁止って残酷な縛りだよ。昔のいい時代の会社なら従業員の人生を背負っていた部分もあるから副業禁止もわかるけど、いつ放り出されるかわからない現代では残酷な規定だと思う。