おすすめマンガ『はなしっぱなし』。五十嵐大介の自然への驚異の感受性。
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少し前に、五十嵐大介『はなしっぱなし 上下巻』(河出書房新社刊)を読んだ。
素晴らしかったので、書評めいたものを書こうと思う。
私はマンガウォッチャーではないので、五十嵐大介については文化庁メディア芸術祭マンガ部門、日本漫画家協会賞受賞などのニュースで名前くらいを知っている程度だった。
『はなしっぱなし』は調べたところ、1994年くらいから月刊アフタヌーンで連載された短篇集とのことなので、随分前だ。
最近、新装版が出たとのことで書店に並んでいたのを、たまたま見つけたのがきっかけです。
自然・生物への愛。鋭敏な感受性
短いものだと2、3ページ、長いものでも20ページもない短編の集まり。一つひとつは関連のない独立した話です。
まず驚いたのが、生物の描写。虫嫌いの人はひいてしまうのではないかというリアリティ。ファーブルや熊田千佳慕(日本のファーブルと呼ばれた画家)並に、生物を愛し、観察しているのだろう。
愛 ゆえに感受性が豊かなのか、豊かな感受性ゆえの愛なのか、どちらが先かはわからないが、とにかくこの人の周りの環境に対する感受性は驚異的だ。周りの環境 と言っても、それこそ自分から半径3メートルくらいの風景で、五十嵐大介にとっては充分なのだ。五十嵐大介からしたら、そこには充分、話へ成長する気配が 眠っているのだろう。あとがきで「興味を持ったら、どこでもいいです、気になる場所で10分間じっとしてみて下さい」と書いている。
気にさせた「気配」をくみ取り、その「気配」を心の中で育て、ひとつの話を創ってしまう力。それが驚異的なのである。
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たとえば、道端の小石、カラカラに乾いたミミズの死骸から話をつむごことができるだろうか(「かたさくらべ」、「赤竜昇天」)。
それは「気配」への感受性(気配を感受するオープンさ)があってこそだが、五十嵐大介は、たとえば地面をついばむ鳥を見て、それに想像的に同一化できてしまう(「鳥の速度」)。
「虹を織る声」という短編がある。様々な気配=音が織りあわされて虹ができるというものだ。おそらく、五十嵐大介の創作とはこういうことなのだろうと思う。わずかな気配から話をつむぐ。
話して放つ。気配をつかまえ読者へ放つ
ところで、「話」と書いたが、短編の多くはいわゆる起承転結、オチがある話ではない。つまり「話っぱなし」なのである。なので、厳密に言えば話ではないのかもしれない。
こういう終わり方はそれはそれで好きだが、きっと出来るだろうに、なぜなのだろうと考えてみる。
強引かもしれないが、それは、気配の主たちを話(完成した物語)の中に完全に囲い込んでしまうことへのためらいではないだろうか。あまりにもそれらを愛してしまっているから。
「はなしっぱなし」とはオチをつけないいい加減な作劇の意味ではなく、話っ放し、話して放つ、気配をつかまえ読者へ放つ、ということではないだろうか。
だから、われわれ読者は否応もなく追体験することとなる。放たれた気配たちを。ここに登場した小石や生物などが、この漫画の外でも、それ自身の生をまっとうしているのを想像できるのである。
あとがきの「自分だけで楽しむのは、もったいないので、なんとかいっしょに」とは、そういうことではないかと思っている。
長編もあるようなので、読んでみようと思う。
それはまた別に書評を書けたらいいかな。
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