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LIFE DRIPPER

「くらしのしずく」-日々のくらしから抽出された発見やアイディア-をお届けします

スラップスティック小説『アナーキー・ソックス』

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ボンゴレビアンコで死ぬ夢で目が覚めた。
薄暗がり。我が家と勝手が違うことにしばし戸惑う。薄っぺらな布団と無数の体臭が混ざった腐ったピーナッツバターみたいな匂い。すぐに職場だと気付く。
仮眠室での目覚めはいつもこんなだ。
我が家の布団が恋しいわけではない。ただ毎回くり返される「ここはどこだ? 職場か」という自問自答がおれを深い落胆におとしいれる。その度に早く辞めようと思うのだ。
シャツの表裏、ボタンの掛け違い、ズボンのジッパーに朦朧とした意識を集中させて制服を着る。
警備室の窓の向こうは、夜のど真ん中。
重いからだをひきずって巡回に出る。眠っていた血液が慌ただしく走り出す。最上階のオフィスの窓からの夜景にしばし立ち止まる。おれは今地球上で太陽からもっとも遠いところにいるのだ、と感傷に浸るその繰り返し。
違うのは夢の内容くらいだ。
今日、なぜボンゴレビアンコかと考えてみれば、それはきっと夜食でコンビニのボンゴレビアンコを食べたからだった。無意識の短絡さに苦笑いを浮かべる。

仕事を終え、駅に向かう。
寝不足で頭の中がちくちくする。夜勤明けの陽射しがからだに突き刺さる。網膜を焦がす。過ぎていく風景が網膜に焼きつく。

更新の遅い視界がうっとうしい。
ぼんやりと、土偶が手を振っているのが見える。頭ちくちく、時空はねじねじ。縄文時代までさかのぼってしまったのか、と独り言ちる。
そ う言えば近くの丘の上のマンション建設地に貝塚が発掘されたという。ならば昔ここは海だったのだろう。確かに水中を歩いているかのような浮ついた足取り。 夏休みの海水浴のような高揚感。その帰りのような倦怠感。そして異常な空腹。早く魚を獲って帰ろう。マンモスの骨付き肉だっていいかもしれない。マンモス はどこだ?
いるわけない。おれはギャートルズでもフリントストーンでもない。ギャーとも叫ばなければ火打ち石なんて持っていない……わけではなくて、おれは百円ライターで煙草に火を点けた。脳みそにニコチンがご苦労さまと告げる。
ただの夜勤明け特有の症状だ。帰って寝ればいい。
なのに約束をしてしまっていたのだ。おれは誰かと待ち合わせをしているはず。誰と? ドラえもん? そんなわけがない。至る所に「みんなあつまれドラえもんショー! 握手会もあるよ」というポスターがあっただけのこと。
と はいえ会場は駅前デパート。握手できるなんて、行ってみたい気がしないでもない。でもドラえもんって握手できるのか、指ないじゃないか、まあどうせ着ぐる みなんだろうから揚げ足をとりなさんな大人げない、しかしあの容姿から五本指の白い手が差し出されては異様ではないか、子どもはどんな反応をするのだろ う、かと言って指なしの白くて丸い拳を出されてもそれはそれでこちらの手がすくむというものだ。と思っているうち土偶の近くまで来ていた。
土偶のようなデブの女がほほ笑みかけてくる。二の足を踏む。名前は何だったか。思い出せない。気が進まない。足は前に出ない。
ポケットから硬貨を取り出して、コイントス。10とあるほうならドラえもんショー、反対なら土偶……掌に平等院鳳凰堂が鈍く光る。

目覚めると、絵に描いたような星。オリオン座に手が届きそうだ。洗剤の匂いのするシーツにふかふかのベッド。
ここは、ラブホテルだ。都会で最も星が見えるところ、なんて思いつきに自分で冷笑する。
土偶の寝顔があった。
隣にいたおれは吐き気をもよおした。反省と後悔が頭をもたげる。罠にはまってしまった。性欲の安易な落とし穴にはまってしまったのだ。されど後ろからおれを蹴落としたのは「ストレスを溜めるのは精神衛生上よくありません」と物知り顔で言う白衣を着たおれなのだけれども。
これからは気をつけよう、と頭の中のメモ帳に赤ペンで注意書き。しかし、前頁、前々頁にも書いた。ため息をつく。
とにかくここを出よう。ベッドから下りた。
服もパンツもない。
「はじめ人間」でさえこのまま外を歩くことはしまい。ベッドの脇に靴下は落ちていたが、パンツは見つからない。とりあえず靴下だけでも履くことにした。
真っ裸に靴下。
妙だ。落ち着かない。
プールの授業での着がえを思い出しても靴下から履くやつはいなかったからか。入浴時に火事やら地震やらが起きて緊急避難するとき靴下を真っ先に履く人はいないだろうからか。自分の姿のおかしさについて考えてみる。衣服の歴史を思いやらずにはいられない。
衣 服の歴史は人間の歴史と言っても過言ではないのだ。靴下、パンツ、上着、下着、ズボン、帽子、靴、手袋、マフラー、ストッキング……。人間が動物の毛皮を 腰に巻いてから、どのように衣服は発展してきたのだろうか。おそらくパンツの類が最初で、そこから上着やズボン、靴などが来て、ストッキングが一番最近と 考えるのが妥当だと思われた。では靴下は何番目だろう。靴下というくらいだから靴より前ってことはありえないだろう。もしかしたらストッキングの一つ前っ てことはありうる。ほぼ美的観点のみの産物であるストッキングを抜きにしてみれば、身体保護のための衣服という機能主義的歴史観から言って、靴下が最も機 能主義的必要性が低いのだから、ストッキングの次に歴史が浅いのではないだろうか。靴下は最新の贅沢品なのかもしれない。
さあ想像してみよう。
突然羞恥心を覚えたか、気候変動で防寒対策を考えざるを得なくなったか、あるいは他人と違った威嚇行動や求愛行動をしたくなったかで衣服を必要とし始める、着衣前夜の人類を。
彼らに現代ある衣類を全て並べて自由に取らせたらどうなるだろう。
初 めに身につけるのは、やはりパンツ類だろうか。上着だろうか。意外にマフラーということもありそうだ。少数意見としてネクタイを選択する者もいるかもしれ ない。しかし、である。原始時代一の個性的なやつでもいの一番に靴下を選択することはないだろう。そうだ、この姿のおかしさはこういうことだったのだ。衣 服の歴史の逆ではないか。西洋の宮殿を模したラブホテルの空調万全の一室、天井にはファンタジックに星座が描かれていて、冬でもないのに手の届きそうなオ リオン座、羽毛布団にくるまる土偶と裸に靴下の滑稽な姿の男。むちゃくちゃだ。
至急服を探せ! 秩序を回復せねばならない。
どこにもない。
カー テンかと見紛うほどでかい女のワンピースはしっかりクローゼットのハンガーに掛けてあるのに。一瞬これで間に合わそうかと魔がさしたが思い止まる。まずこ こまでの行動を振り返る必要がある。時計の針を巻き戻そう。なのに時計がない。大概のラブホテルには部屋に時計がないのだ。しっかり延長料金は取るくせ に。幸い腕時計はベッドの頭の部分になんなく見つかった。針を逆回転させてみる。それにしても裸に靴下と腕時計。なんてますます滑稽というか変態という か……。
めくるめく、記憶がよみがえる。とりあえず服を着てここまで来たのは間違いない。問題はその後だ。猥褻を通り越し、もはや野生動物のド キュメンタリー映像。その激しさたるやクレイアニメでしか再現できないだろう。土偶のすさまじい腰の動き。この辺りに緊急地震速報が流れなかったかと心配 になる。そもそも自分がこうして生きてることが不思議なくらいだ。股間には大事なチョリソーが力なく垂れていた。無事でほっとした。
さて、喫緊の問題は服の行方だ。
記憶映像の中の土偶の裸体をモザイク処理しながら巻き戻しと早送りを操って一時停止。入室するや否や、服を着たままのおれが女にベッドに押し倒されていた。コマ送りをしても靴下がベッドから飛び出したことしか確認できない。ということは服はいまだベッドの中ではないか。
女を起こさないように慎重に布団をめくる。
グッ ドニュースとバッドニュース。一度布団を戻して考える。どちらを先に受けとめ、どちらに対する感情を先に露わにすべきかと。自己啓発系や育児関係の本によ くある問題だ。褒めるのと叱るのとどちらを先にすると部下や子どものモチベーションが上がるかという指南。まず褒めてから改善点を指摘する。そうすること で意見を受け入れ易くし、気持ちよく改善のための課題に取り組めるというわけだ。なるほど一理ある。現状に当てはめるなら、まずグッドニュースでテンショ ンを上げてからバッドニュースの課題に取り組むという具合か。でも育児の場合ならどうだろう。せっかく褒められたのにその直後に叱られたら子どもは混乱し たり、持ち上げられた分ショックも大きく感じるのではないか。逆パターンの指南もある。まず叱ってから褒めたりしてフォローする方法だ。あとで褒められる ことで結果前向きになりそうだし、棚からぼたもち的なうれしさや、スイカに塩かけることでより甘みを感じるみたいな効果があるような気がする。おれにはど ちらが向いているのか。子ども時代はどうだっただろうと回顧してみる……スイカには塩をかけていたよな……うまいものは最初に食べてたなあ……おだてられ てクラス委員長をおしつけられたっけ……あれ? 思い出に浸っている場合ではない。とにかくうまいものは先に食べる派だったということを確認できただけで 十分だ。手っ取り早く喜びを味わおう。声を圧し殺し、万歳三唱。パンツに服一式すべてベッドの中にあったのだ。しかし喜びもここまで。すぐさまピコピコン と緊急速報の知らせ。報道センターのスーツ姿のおれが真面目な表情で告げる。
「緊急速報です。パンツと服一式すべて、土偶の巨体に下敷きになっている状態で発見されました。しかし引っ張り出すか、土偶のからだを動かさないと取り上げるのは不可能の模様です。繰り返します。パンツと服一式……模様です……以上報道センターからお送り致しました」
やはり逆パターンのほうがよかっただろうか。
うわ、下敷きになってる、でもこんなところにあったなんておれってラッキー、という具合に。そうだ仕切り直そう。おれはわざとらしく呟く。あれ、パンツも服もない……ってバカバカバカおれのバカっ!
仕切り直したって下敷きになっている事実は変わりはしない。
目 下の懸案は土偶の下からどうパンツと服を取り出すかである。土偶が熟睡しているのはプラスでもありマイナスでもあった。そう簡単には目覚めそうもないが寝 返りの一つでもしてくれないと穏便に取り出せそうにない。仰向けに寝ている土偶のからだの脇腹の下からシャツの袖が出ていた。一番救い出しやすそうだ。試 しに引っ張ってみる。ジェンガ並に慎重に。
ずりずりと摩擦音。目が覚めてしまうほど大きくはない。問題は別のところにあった。シャツが引き出されるのに伴って背中のぜい肉も引き出されてくることだ。それによくよく見ればシャツは出てきているというか、ただ伸びているだけのような気がしないでもない。
一旦あきらめて第二案に取り組むことにした。
ベッドを傾けて強制的に寝返りさせる方法。
寝返りしないならさせてみせようホトトギス、というわけだ。ベッドの側面に手をかけて持ち上げようとふんばり、すぐに手を離した。
格闘技の達人になると組んだ瞬間に相手との力量差がわかるという。
おれは格闘技とは無縁だが、今それが実感できた。さっそく改案を考えた。シーツを向こう側にめくり上げる方法だ。寝返りしないならさせてみせようホトトギスVer.2.0、である。しかし巨体は動じない。
結局試行錯誤の末、テーブルクロス引きの要領でシーツを引っ張るというVer.2.8まで試みたところで力尽き、断念した。
ソファで一服。おれは家康の偉大さに敬服していた。天下を取った男は違う。結局は、寝返りしないならするまで待とうホトトギスということか。
裸に靴下と腕時計の恰好に慣れ始めていた。このまま何気ない顔で歩いていれば誰も変だとは思わないのではないだろうか、自分の気にし過ぎではないかと。
裸 の王様を気取って外をぶらつくのも一興かもしれない。ラブホテルとオフィスビルの立ち並ぶ通りを、この恰好で大手を振って歩いてみよう。何ならスキップも 交えてやろう。あの人裸だよ、なんて叫ぶガキが現れたらとっつかまえて、そうさ裸さ何が悪い、と言って自由や偏見や固定観念について講義してやろう。難し いなら童話で説いてやろう。子どもでさえ裸をそしる頭の固い、偏見に満ちた不自由な社会を、身を持ってまさに裸一貫で改革しようとした王様の話だ。
なんなら歌ってやってもいい。

想像してごらん 世の中にパンツも服も無いと♪
想像してごらん みんな裸で暮らしている世界を♪
想像してごらん 何を着ていくか迷わなくていい朝を♪
想像してごらん 女子風呂を覗きに行く必要のない修学旅行を♪
想像してごらん 道端に捨てられているエロ本に興奮しない青春を♪


渋 い顔するなよ。心浮かれてくるだろ。なんだかんだと口ずさんでるじゃないか。からだが軽くなってきはしないかい。それならいっそのこと踊ろう。一緒に踊ろ う。ステップを踏み、手を振り上げ、おれはアステアで、君はジーン・ケリー。ラブホテルから恋人たちが出てきて愛を歌う。オフィスビルの窓からストンプが 響き、営業マンはリズミカルにブリーフケースを叩き、そのうちみんなで踊り出す。さあ歌い踊ろうよ、仕事の手を休めてさ、さあ手を叩こうよ、服なんて脱い でさ、でも靴下は脱がずにィー足を高く振り上げてえェー、痛いッ!!
ソファの前にあったテーブルの脚を蹴ってしまった。調子に乗ってはいけない。遠足のしおりにも書いてあることだ。
それにしても小指が痛い。もげそうなほど痛い。これで靴下を履いていなかったらもっとひどいことになっていただろう。
偶然が運命になった瞬間。靴下よありがとう。
それにしてもなぜにいつも小指ばかりなのか。こんなこと前にもあったなと思う。頭の中のメモ帳に上手いこと書いたような気がする。小学六年生頃に書いていた。手の小指が恋人と赤い糸で結ばれているように足の小指は家具の角と赤い糸で結ばれていると。
何 ておれは聡明な子どもだったのかと感心するが、ほくそ笑む間もなく痛みでのたうつ。その拍子に後頭部をうつ。片手で足を、もう一方の手で後頭部をおさえ る。はたから見れば、瞬間接着剤で手と足、手と後頭部がくっついて慌てている人。見方によっては奇天烈なヨガである。そう思うとなんだか楽しくなってく る。痛みはおさまってきたのに過剰に痛がってのたうちまわってみる。
すぐに余計なことはするものではないと後悔する。女のかばんにぶつかり中身が床に散らばってしまった。
しかしそれらは痛みを忘れるにたるほどの興味を引くものだった。
赤黒い錠剤、数冊の本、多数の薄手のパンフレットに、「喫煙者」「非喫煙者」「肺癌」とキャプションがある生々しい肺の写真が数枚。
その他にも大腸癌食道癌乳癌膵臓癌肝臓癌腎臓癌前立腺癌膀胱癌子宮頚癌胃癌口腔癌などの見るもおぞましいグロテスクな写真や畸形のカエルや魚の写真があった。
本やパンフレットには
「添加物の恐怖」
環境ホルモンが生命を破壊する」
「あなたは自ら命を縮めています」
「地球が泣いている」
「これであなたも百歳まで生きられる」
「究極の美容法」
「皮膚がよみがえる」
などと書いてあり、三十代くらいの男が未開民族と思わしき恰好をした老人と笑顔で肩を組んでいる写真があった。キャプションには「チッマール族の長老と著者 アマゾン奥地にて」とあった。
赤 黒い錠剤には見覚えがあった。女がちょくちょく飲んでいたもので、そもそもこの女を紹介してくれたおれの友人の白井が飲んでいるものと同じだった。それに 何よりセックスの最中に突然女がおれの口に放り込んだものだ。いまさら心配になって口に指を突っ込んだがすでに遅い。もう吸収されてしまったくらいの時間 が経っていた。錠剤の入っていた瓶には「セップボーラ・エッセンス」とあった。
本を繰ってみると「セップボーラ」とはアマゾンの奥地にのみ自生し ている希少な植物で、チッマール族の言葉で「生命の源」という意味であるらしい。その根からとったエキスは万病に効いて、その証拠にチッマール族は長寿で 有名で写真の長老は127歳であるという。現在のところ栽培方法が見つかっていないため、著者の浅利という男が代表を務める組織が紹介者にのみに譲るとい う形をとっているが、諸経費と会費として月五万は払わないといけないという。
浅利という男の経歴には「大学卒業後広告代理店に勤めるが現代社会や 資本主義に疑問を持ち退社。世界放浪の旅に出る。旅中アマゾンの先住民チッマール族と出会い一念発起。百歳まで生きる会を作り世界各地でセップボーラの普 及や環境問題や貧困問題に取り組んでいる」とあった。
女の手帳があったので中を見ると、営業マニュアルのような記述があった。戦略は単純だった。現在出回っている食品や薬は全て人間にとって害であると不安をあおったところで「セップボーラ」を勧めるとあった。
うすうす感づいていたことだが女の目的はこの錠剤を売りつけることに違いなかった。
友 人の白井の紹介で夜勤明けに女と待ち合わせた。カフェに入り、何て事のない話を続けていた。しかしおれが煙草に火を点けたとき、女のどこかにも火を点けて しまったらしい。今思えば女の営業魂にだったのだろう。口調が滑らかになってそれとなく煙草の害について語り始めた。うっとうしくなって煙草を消し話を変 えた。あのまま聞いていたらあの肺の写真を出してきたことだろう。その後も何かにつけておれの仕事や日々の不満を聞き出そうとしてきた。これも今思えば不 満を糸口に自分たちの世界に興味を持たせ、しまいにはあの妙な錠剤を売ろうという魂胆だったのだろう。しかしおれはくどくどとめんどくさいし女の話し方も 気に食わなかったから、やけになって「まあおれの場合不満もセックスでもすれば一発で解消だけど」と悪ふざけで言ったら、女は待ってましたとばかりの笑顔 になった。
それでおれは今、裸に靴下と腕時計の恰好でラブホテルの一室にいるというわけだった。女はこうやって枕営業で上手いことやっているのだろう。身につけているものが高級品ばかりに見えた。白井もこの手にはまってしまったのだろうか。
おれはおれを大いに恥じたが、反省より先にさっさと服を奪還し妙な錠剤を売りつけられる前にここを出なければならない。
腹が立っていた。
天 下は取れなくてもいい。寝返りするまで待つ気にはなれなかった。パンツとシャツとズボンを手でつかみ引っ張ると同時に足の裏で女の巨体を向こう側に全力で 蹴飛ばした。何度も蹴飛ばしてやっと巨体がごろんと寝返り服を引っ張る出すことができたが、その拍子におれは後ろにひっくり帰返ってしまった。
女は何事もなかったかのように目を覚ます。
「どうしたの。何してんの?」と言いながら尻もちをついているおれの姿を見てけたけた笑った。
黙ってにらんだ。
女が一段と笑い出した。
「穴 あいてる」と言っておれの足もとを指差していた。靴下に穴があいていて親指が顔を出していた。いつの間に……。それになぜだろう、恥ずかしかった。靴下に 穴があいていることくらい、ほぼ全裸状態に比べたらなんてことないはずなのに。女の曇りのない嘲笑の顔に殺してしまえホトトギスばりの憎悪を覚えた。
突然女が絶叫した。
「何 してんのよ。あんたこれ何だと思っているの」と半狂乱で床に這いつくばり散らばっていた錠剤をかき集めだした。たっぷりとした背中の肉を揺らしながら罵詈 雑言を吐き続けていた。おれはすぐさま服を着て部屋を出ようと扉に向かう。「逃げるんじゃないよ」と女は叫びおれの足をつかんだ。振りほどこうと必死に足 をばたつかせた。
やっとの思いで振りほどいた足が勢い余って女の顔面に直撃し、靴下の穴から出ていた親指が女の鼻の穴にすぽっと刺さってしまった。
女の悲鳴を背におれは逃げ出した。

夜の公園。水道で靴下を脱いで足の親指を丹念に洗った。
今日一日をなかったことにしたいと思った。ドラえもんショーに行けばよかったのだ。何ならドラえもんがいてくれたらいいのに。何とかしてくれただろう。でもやって来たのは白井だった。ひどい一日の責任を女を紹介した白井に被せるために電話で呼び出したのだった。
白井はにやにやしながら、
「どうだった、すごかったろ? えひひ」と言った。
「どうもこうもない。おれをだまそうとしたろ?」
「だますなんて人聞きが悪い。慈善活動さ。今世の中が悪い方に向かっているのは認めるよね。セップボーラがあれば世界は救われるかもしれないんだぜ」
「それが本当ならすでに世の中に出回っていてもいいはずじゃないか」
予期していたかのように白井はにやっと笑った。
「そ うなんだ、そこがミソなんだよ。特別に教えてやるよ。実はあれはもともと、研究すればノーベル賞級の発見があるに違いないと一部の研究者の間では有名なも のなんだよ。なのに出回ってないのは、アマゾンの奥地にのみ自生する極めて希少で貴重もので、チッマール族にとって神聖なものだから勝手な採取や村外への 持ち出しを基本的に禁止しているからなんだ。私利私欲にまみれた人間に渡すと悪用されると思ってね。研究のためにと言ってやって来る多くの人間がいるらし いけど、そこの長老に私利私欲を見透かされて門前払いってわけさ」
「じゃあなんで……」
「そう、じゃあなんでそんなものがぼくらのもとにあるのかというと、ぼくらの代表の浅利さんという人のおかげなんだ。代表の私利私欲のない世界平和への熱意や人類愛が長老の心を動かし初めて特別に持ち出しを許されたんだ。すごい人だろ」
「おまえ本当にそんな話信じているの?」とおれは言いつつも何かと物事を陰謀説で解決する傾向のある白井には好物のフィクションだと思った。
「代表に会えばわかる。代表と一緒にいれば真実に近づける。世の中の仕組みもわかる。世の中がすっきり見えてきて気分がいいよ」
「勝手に優越感に浸っていればいいだろ。だけどおれを巻き込むな」
「親切だよ。親友だと思っているから特別に教えてやったのに。今ならうまくやれば幹部になれるぞ。今栽培方法を研究中でそのうち大量生産できるから相当もうかる」
「結局金銭欲じゃねえか」
「どう解釈したって構わないけど、なんでだろうな。善いことしてんのに。世のためになる活動だ。やっと生き甲斐が見つかったんだ。それに今まで散々虐げられてきたんだ。そんくらいいいだろ」
「それはわかる。でもだからってあんな話に飛びつくなんて……」
「とにかくそんな生き方だとハッピーになれないよ。まあ気が向いたら連絡ちょうだいよ」
すると別の男の声が。
「救われたいなら早いほうがいい。もうすぐ世界は破滅だ」ジャングルジムの上に男がいた。
「代表いたんですか。何してるんすか?」と白井は呼びかけた。
男はジャングルジムから飛び降りてきた。着地の際におれの足の親指を踏んづけた。靴下を脱いでいたから相当な痛みで絶叫してしまった。しかし男は無視して白井と話し続けた。
「白井くん大変だ。もうすぐ世界は破滅だ」
「何でですか? フリーメーソンの仕業ですか? またCIAですか? それともKGB? FBI? NASANATOIMF、WHO、OPEC、AIDS、SARS、IOC、GHQ、CEO、CPU、URL、OMG、FAQ……。何の仕業っすか? 教えてくださいよお」
「惜しい。UFOだ」
「やっぱりぃ。代表どうすればいいんすか?」
「闘うしかない。ほれ白井くんもこれを被って」と言って男は派手な覆面を白井に渡し服を脱ぎ出した。男はレスラーパンツを穿いていた。
「白井くんも脱いで」と言って男は覆面を被った。白井は白いブリーフパンツ一枚になり、覆面を被った。
「南米で買ってきたもんだ。強そうだろ。タッグで闘おう。名前が必要だな。よし、ぼくがボンゴレで白井くんがビアンコだ。二人合わせてボンゴレビアンコだ。どうだ強そうだろ。さっそく練習だ」と言ってその場で地面にストンピングし始めた。
「ほれ、まねして」と男が言うと、二人は
ボンゴレ!」
「ビアンコ!」
という掛け声で地面に向かってストンピングを繰り返した。しかし狙っているとしか思えないほどの正確さで度々おれの足の親指に殺気に満ちたストンピングをしてきた。
堪らず逃げる。痛みで足をひきずりながら走る。
背後では「ボンゴレ、ビアンコ」という掛け声が闇夜に響いていた。近所迷惑で通報さえなければいいが、と少しだけ友人のことを心配した。

目 が覚めると我が家の布団の中だった。夢見が悪かったなと思ったが親指がひどく痛んだ。夢ではなかったようだ。それにひどい目眩がした。時計を見るともう昼 を過ぎていた。仕事に行く時間だ。しかし親指が痛むし目眩もひどい。病院に行こうと思ったが、今日さぼったらクビになるかもしれないと迷った。
こういうときはコインで決めよう。
ポケットから五十円玉を取り出した。穴があいているほうが出たら病院で、反対なら仕事でコイントス。病院に行くことに決定した。どうせあんな仕事辞めたかったんだ。

老医師はおれが診察室の椅子に腰かけるなり「骨折かね」と言った。「え、まだ診てないじゃないですか」
「ではどうしたんだい?」
「足の親指が痛くて。人に踏まれたんです」
「やっぱり骨折じゃないか。こりゃひどい」と老医師はちらっと見ただけで言った。
「それだけ? レントゲンとか必要ないんですか」
「いいけど高いよ」とこちらに目もくれずに言った。
老医師は机にかぶりつくようにしてカルテに書いていた。
「じゃあいいです。でもせめて触診とかして下さい」
「骨折は骨折だ。問題はただの骨折か亀裂骨折か……」
「だからちゃんと診てください」
「はたまた単純骨折か複雑骨折か圧迫骨折複合骨折粉砕骨折疲労骨折剥離骨折……
「やめて下さい、聴き取るだけで骨が折れます」
「ほらやっぱり骨折じゃ」
「ふ、ふざけないで下さい」
「あんたもな」
「それにさっきから何しているんですか?」
「そりゃカルテを書いておるんだ。医者だからね。君にぴったりの処方箋だ」
「そんなのがあるんですか? ありがとうございます」
「あーあー待っちょれ、もうちょいだ。こんな感じだっけのぉ。UFOはいつやって来たんだっけ……」
老医師は机にかぶりつき、ぶつぶつとしゃべりながら熱心に手を動かしていた。そっと覗いてみる。
カルテには下手くそなドラえもんが描かれていた。
まずは足の痛みより先にこのひどい目眩を何とかするべきだと黙って診察室を出た。

目眩に酔いながら流れ着くようにカフェに入った。
最近できたばかりの流行のところだ。
席に着くとすかさずウェイトレスがやって来た。見事な働きっぷり。時給いくらだったらこんなに機敏に動けるのだろう。
「ドリンクメニューはこちらでございます」とウェイトレスは言った。獲りたての魚みたいなぴちぴちとした言い方だった。メニューには年寄り入店お断りと暗に言いたげなほどの小さな字でびっしりと書かれていた。
ブレンド、アメリカン、カフェラテ、カフェオレ、カプチーノアールグレイ、レモンティー、ミルクティー、オレンジ、アップル、キューカンバー、ジンジャーホエール、マンゴーラッシー、バナナラッシー、メイケンラッシー、ネッシー……。
あまりにもたくさんの種類があった。目眩するほどだ。いや目眩のせいでそう見えただけかもしれない。とにかくメニューを一通り見るだけでも一苦労。飲み物ではないものもあったような気がする。
とても一つだけを選ぶことはできそうにない。
とくに今のおれには無理そうだ。コイントスも役に立つまい。ウェイトレスは急かすような眼差しでおれを見ている。
「店のおすすめは?」と訊くことにした。
「全部です」ウェイトレスは笑顔で即答した。
「そりゃそうだよね。えっとーじゃあ一番売れているのは?」
「一番人気はカフェラテです。でもわたし的にはカフェオレが一番です。カフェラテも嫌いじゃないですけど」
「あ、そう。ところでカフェラテとカフェオレは何が違うの?」
「……字が違います」ウェイトレスはもじもじと言った。
みるみる顔が赤くなっていく。なら言わなきゃいいのに。しかし意地悪な質問をしたおれも悪い。
気を遣って「あなたの好みのほうが信用できそうだからカフェオレ下さい」と言った。
なのに気遣いは通じなかったらしい。ウェイトレスはクイズ番組の司会者のように「ホットですかアイスですか?」と問い詰めてきた。
さあ運命の分かれ道。天国か地獄か。
コイントスの出番だ。ポケットから硬貨を取り出す。100ならホット、桜ならアイスでコイントス
これは奇跡か、神が裁きをためらったのか。百円玉はテーブルの上をころころ転がり、立ったまま止まる。
驚いてウェイトレスを見たが真顔で見つめ返された。
「ちなみにホットとアイスの中間っていうのは……」
「ないです」
「じゃあホットでもアイスでもないものって……」
「ないです。決まったらお呼び下さい」とウェイトレスはつっけんどんに言って離れて行った。
優秀なウェイトレスを追い払う神の精妙な逡巡に、おれは思わず手を合わせた。




― とりあえず おしまい ―


 

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